坪松の半生

坪松の半生

自由奔放な幼少時代

私、坪松は幼ない頃からモノいじりと釣りが大好きでした。農業を営む父は農機具の全てを修理と称して改造してしまうほど器用で、JA泣かせの人。そんな父の影響からか、周りの友人達がプラモデルに興じているのを傍目に、中学校の技術家庭の時間に耕運機のエンジンをバラしたり、自作のラジコンを作っては壊していました。(何人のパイロットを犠牲にしたことか……)。

一方、釣りでは孔雀の羽でウキを作ったり、釣って来た魚をいけすに放ち、釣堀と称して友達と釣り大会なども開催したりと、まさに自由奔放に育ちました。

レースの世界への目覚め

中学を卒業すると、明野高校という地元の高校へ進学。この明野高校、私の1年生時に開校3年目で甲子園に出場したという素晴らしい学校だったのですが、この歳頃になると、耕運機と釣りは過去の産物となりました。

高校も2年目を迎える頃、矢沢永吉とバイクに出会ってしまいます。特に2サイクルエンジンから放たれる植物性オイルの匂いと煙幕のような青白い煙が何とも最高で、いつも加速は全開でした。

当時はお金もありませんでしたから、とにかく物を外す改造ばかり。マフラー、シートは勿論のこと、時にはナンバーなんぞも外したりする始末。もちろんこれはお咎めがありましたが……。今にして思えば、ムリ・ムダ・ムラのある改造に明け暮れる毎日でした。

そんな小僧が高校卒業後、就職したのは自動車修理工場。偶然、そこに筑波サーキットでハコのレースをやっている先輩がいたことで、今度はクルマの道へと真っしぐら。これがレース業界に入るきっかけとなったのでした。

自分への挑戦

整備工場で働きながら、自分のクルマを改造するものの、2〜3ヶ月もすると車高を落としてピョコピョコ跳ねるクルマにもだんだん飽きてきて……。そんなある日の昼休み、休憩所のテーブルの上にレースのプログラムが置いてありました。何の気なしにパラパラとページをめくってみたら……。なんだか凄くカッコいい!! ナンバーも付いてないし……(笑)。数日後には、自家用車を売却し、先輩からハコ車(110サニー)を購入していました。しかし、その半年後、筑波サーキットでの練習中にダンロップ下で3回転のクラッシュ!全損でした……。

でも、もうこうなったら歯止めは効かない。会社も辞め“プロのドライバーになってやる!”とばかりにレースをやることに決め、フォーミュラカーに挑戦しました。

こうして私、坪松は筑波サーキット前のレーシングガレージの門を叩き、月に一度のフォーミュラカーでの練習に備えることになったのですが、当時、そのガレージには私に負けぬほどヤンチャな小僧がもうひとりいました。片山右京という名の、同じ歳のヤツでした。

この右京、とてつもなく速い男でした。いつもコーナーではマシンが真横を向いているほど、アクセルは全開。本当に凄かった!それを見せつけられた私には、ドライバーになるという夢を諦めるのに、多くの時間は必要ありませんでした。

メカニック人生の幕開け

こうして二十歳の時、私はハンドルからスパナに握り替えることを決意。FJ1600に参戦する右京と共に鈴鹿に遠征し優勝を果たすなど、彼と初めて味わった、メカニックとして勝つ喜びは何とも最高なものでした。

翌年、右京に誘われ、天才ドライバー長谷見昌弘氏率いるハセミモータースポーツに入社。日産の化け物マシン「Cカー」を担当することに。日産が初挑戦するルマン24時間では丸5日間(120時間!)という徹夜記録を樹立。(顔に半端じゃないオデキができたのを今も覚えています)

当時、私は右京の家に下宿させて貰っていましたが、右京本人はF3を国内で戦った後、翌年には単身フランスへ渡り、フォーミュラルノーに参戦することに。翌年には私も右京とともに渡仏、彼のメカニックとしてフランスF3選手権に挑戦しました。

しかし、綺麗な金髪のオネエサンたちには目もくれず、安いハンバーガーを主食にしながら、表彰台で日本国歌を聞くべく死に物狂いでレースに没頭したのですが、悲しいかなカフェオレとクロワッサンに馴染めず(?)、結局志半ばで帰国することとなったのでした。

失意の中、日本に戻って入社した童夢では、オリジナルF3000シャーシとなる「DOME F101」の開発に携わりつつ、京都のたこ焼きを満喫することとなったのですが、残念ながら童夢のような大所帯の会社には、自分が求める魅力がそう多くはありませんでした。

Le Beaussetの誕生

「右京と一緒に戦った頃のように熱くなるレースがしたい!」そう考えた私は童夢を退社し、右京に協力をしてもらい、フォーミュラを扱うメンテナンスファクトリー「Le Beausset(ル・ボーセ)」を興すこととなりました。ちなみに「ル・ボーセ」という名の由来は、右京のメカニックとして戦ったフランスでの最後のF3レースとなった、南フランス・ポールリカールサーキットにある、美しい港町を見下ろす丘の上のコーナー名からとったものです。当時右京はヒーローズレーシングより全日本F3000選手権(現FN)に参戦しており、F1参戦も秒読み段階に入っていた頃。私は「右京に続く若手ドライバーを発掘して育成すること」を最大の目標とし、フォーミュラの入門カテゴリーであるFJ1600から参戦を開始し、メーカー系フォーミュラのフォーミュラ・トヨタ、そしてフォーミュラ・ニッポンへと、所属ドライバーと共にステップアップしていったのです。

Le Beausset Motorsportsの誕生

その後、2003年にはル・ボーセの事業を引き継ぐ形で独立、有限会社ル・ボーセモータースポーツを設立することとなりました。この決断で、大好きな海釣りに行く機会が減り、そのストレスから食べることに熱中し始めたせいか、妙に貫禄がつき始めたというのはご愛嬌です。

さらに2007年、長年の夢であったファクトリーを国内有数のサーキットであるツインリンクもてぎ近くへ移設。現在も、フォーミュラ・ニッポンに参戦しながらも、底辺フォーミュラに注力中。いつの日かこのフィールドから世界に羽ばたくドライバーを発掘し育成することが、今も変わらぬ私の夢です。

そう私、坪松唯夫は、いまだ夢の途上にいるわけです。

代表である坪松唯夫の経歴

1983-84年 オートルック筑波ガレージに入社。FJ1600筑波選手権及び鈴鹿選手権で片山右京を担当。
1985-86年 ハセミ・モータースポーツに入社。長谷見昌弘、鈴木亜久里、和田孝夫・片山右京らが操る全日本耐久選手権、全日本F3選手権、日産初となるル・マン24時間耐久レースを担当。
1987年 オートルック・レーシングプロジェクトにて、片山右京とともに渡仏しマールボロ・フランスF3選手権を担当。
1988年 童夢に入社。松本恵二の全日本F3000選手権を担当する傍ら、国産F3000マシン童夢101開発にも従事する。